佐村河内問題

 佐村河内問題には驚かされた。被爆2世で全聾者で、感動的な作曲を続け
ているという話題性は、まゆつばだったが、その神話が本当にガラガラすっか
り崩れたからだ。私の周囲の人たちは『交響曲第1番HIROSHIMA』をよく話
題にしていたが、残念ながら私はこれまで佐村河内守氏が新垣隆に作曲させ
ていたという『交響曲第1番HIROSHIMA』も『ピアノのためのレクイエム』も
を聴いたことがなかった。また、NHKスペシャルの放映も観ていなかった。
 だから、この問題を奇妙に思いながらも、その本質がよくわからなかった。 
しかし青柳いづみこの「どこまでがドビュッシー?」(17)(『図書』4月号)を
読んで、その分析がとても興味深く、なるほどと思うことがいくつかあった。

 ゴーストライターの新垣氏は現代音楽の作曲を仕事の本流にしていて
佐村河内氏の依頼する調性音楽の作曲は「息抜き」だったという。
チャイコフスキーやマーラーなどの後期ロマン派の音で満たされていて
とてもわかりやすい、感動的な作風だっという。
 一方新垣氏の本来の作風は『交響曲第1番HIROSHIMA』とは真逆の
様々なジャンルと時代の音楽のコラージュにテキストやパフォーマンスを
組み合わせたものなのだそうだ。
 青柳いづみこは新垣氏の二重人格ぶりに興味を抱いている。

 私は、一般の人々がやっぱり後期ロマン派のわかりやすい音楽が好き
だという点に興味を持った。なぜ多くの日本人を感動させ、高収入を得るの
は後期ロマン派的な音楽なのか。そして一方なぜ、作曲家たちは現代音楽
を求め、難解で不条理に満ちた調性のない曲を作り続けるのか。この乖離
は何を意味するのだろうか。
 
 青柳いづみこは、佐村河内作品と新垣作品の共通項をドビュッシーに
求める。ドビュッシーは分裂した性格を持ち、ワーグナーに劣らぬ濃密な
ロマンティシズムをたたえた作品を作る一方で、美しいメロディを断ち切
る作風へと転じていったという。

 
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by nokogirisou | 2014-03-31 00:31 | 音楽
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