『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』にふたたび会いたくて

 
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 1996年12月に岩波からこの本が出たとき、本当に興奮した。
こんな組み合わせの対談が実現するとは。自分自身新しい生活
のただ中で、何かを求めていたときだった。
 今回、まず立ち止まってしまったのは河合の聞き手としての役割
だった。前書きで村上がこう書く。
「河合さんと差し向かいで話をしていて僕がいつも感心するのは、彼
が決して自分の考えで相手を動かそうとしないところである。相手の
思考の自発的な動きを邪魔するまい、と最新の注意を払う。むしろ
相手の動きに合わせて、自分の一を少しずつシフトさせていく。」
これは、やはりすごいことだと思う。究極の聞き手のあり方だと思う。

 自分も語りたい、聞いてもらいたい…という願望がある。けれども
現実の対話の中で、一方的な話し手であることも、一方的な聞き手
であることもつらい。それが対話であるならば。相手にそれを感じさ
せない聞き方というのがあるのだと思う。

 「コミットメントというのは何かというと、人と人とのかかわり合いだと
思うのだけれど、これまでにあるような、『あなたの言っていることは
わかる、じゃ、手をつなごう』というのではなく、『井戸』を掘って掘って
掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、
というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです」(村上)
 
 ここに深い共感を持った。表面的にはわからない。つながらない。遠い。
けれども井戸掘りをしていると思いがけず、つながることがある。「井戸
掘り」という言葉はすごい比喩である。「壁抜け」という語もこの本の中では
キーワードだった。

 「ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているのです。みんな
偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗
するのです。ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです」(河合)
 
 偶然待ち。つらいけれど、生きるというのはそういうことか。
 ときどきじたばたしてしまうけれども。
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by nokogirisou | 2005-08-14 03:55 | 本と図書館
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