映画『羊と鋼の森』を見て

原作を読んで、気になっていたので、劇場に足を運んだ。

かつてピアノを弾き、挫折した経験はあるは、やはり楽器としてのピアノ

に興味があり、音楽の中でもやはりピアノ曲を多く選んで聴いてしまう。

ピアノの調律という仕事にも関心があった。

この映画は、一人の少年の成長物語であり、ピアノの調律という仕事を

先輩たちから挫折しながら学んでいく青年の物語でもある。台詞は少なく

森の描写、水の描写が象徴的で映画として、私の好きな作品であった。

私がとても気になったのは「ことば」であった。

調律の依頼をするときに「やわらかい音に」「あかるい音に」「のびやかな音に」

「固い音に」という表現をする。調律師は依頼人がどういう音を求めているのか

それをどういう音であるのかを翻訳して、自分の作業に結びつける。

そういう表現をあいまいだ、抽象的だ、文学的だと非難する人はいないのだろうか

と勝手に心配になってしまった。

途中、板鳥というベテラン調律師が「どういう音を求めているか」と若い外村に

尋ねられて原民喜の『砂漠の花』を引用するシーンがある。外村はそれを手帳に

記して、それを目指そうとする。

明るく静かに澄んでなつかしい文体、

少しは甘えてゐるやうでありながら、

きびしく深いものを堪へてゐる文体、

夢のやうに美しいが現実のやうに

たしかな文体…

こういう音に憧れているというのだ。

私は、こういう感覚がよくわかる。が、

そんな文学的な言葉で音を表現すること

を拒絶する人たちがいるのではないかと

危惧してしまう。

もっと物理的な、数値で音を表現する方

が正確だ。そうあるべきだと考えている

人がいることも知っている。

それでも、やはり私は音楽を、音を言葉

で表現したいと思う。ときには比喩で時

には象徴として。そして実際に再現され

た音と、音の言葉との関係を探ろうと思

ってしまう。それは許されてよいはずだ。

 


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by nokogirisou | 2018-07-08 10:07 | 映画
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