2011年 06月 25日
上野千鶴子「声」
彼女のエッセイと俳句を私は秀逸だと思う。
エッセイ集『ひとりの午後に』はNHKの「おしゃれ工房」という雑誌との
コラボで生まれたという。この本についてはまたのちほど書きたいが、
その中の「声」というエッセイにとても共感を覚えたので、忘れないうちに
記しておこう。
上野はヴォーカルが聴けなくなったプロセスをテープを逆戻しするよう
にたどって、女性ヴォーカルを聴くようになっていったという。
私と共通なのは、彼女がオーケストラを聴けなくなり、室内楽が好きだ
という点。楽器の中で管楽器がだめになったというところ。管楽器は息を
吹き込む楽器だからだろうか。ヴォーカルは論外になったという。
私もあるとき、オーケストラがまったく聴けなくなった。CDを流しても
おしつけがましくて、止めてしまうということがあった。今はライブやFMな
らオーケストラを喜んで聴くが、CDを部屋で聴くのは必要に迫られたとき
と、ライブの予習と復習(笑)のときである。
人の声はだめだった。オペラのアリアも歌曲も聴いていて苦しくなった。
特に女性の声がだめだった。まったく歌をきけない時期があった。
それが聴けるようになったのは、上野千鶴子と同じくフィリッパ・ジョルダーノ
を聴いてからだった。サラ・ブライトマンも聴いた。そして、以後人の声を聴け
るようになった。なぜそうなったのかわからない。吹奏楽も好きになった。
ただし、上野も書いているように女性の歌声を聞くには、聴く側の体力と気力がいる。
音楽を聴くという、ただそれだけのことが聴く側の精神や体力ととても大きく
関わることを痛感する。
2011年 06月 25日
太郎と敏子~瀬戸内寂聴が語る究極の愛~
岡本太郎はとても気になる芸術家でいくつかの著述を読んだり、作品を見たり
したが、謎の人であった。
しかしそれよりなぞだったのは太郎の秘書であり実質的な妻であり、創作の
パートナーであり養女であった岡本敏子という女性だった。いったい何者なの
だろう。どうして50年にもわたって岡本太郎に関わっていられたのだろう。
このたび、岡本敏子の仕事部屋から大量の資料がみつかって、瀬戸内寂聴
がそれを読み解いた。資料を通して、敏子の半生を描いた番組である。
私が予測していたことが、瀬戸内寂聴の口から語られることがあり、納得でき
たり衝撃をうけたりした。
二人の関係は50年の間に、変化しながらも 、ずっと深い愛があったのだろうと
思う。あるときは男女の愛、あるときは親子のような愛、あるときは友愛、あるとき
は師弟の愛、あるときは兄妹のような愛、またあるときは同志の愛。互いの結び
つきの強さは運命としかいえないように二人の関係だと思った。
こういう生き方もあるのだとある種の感動を覚えた。一人の人間を闘いながら、
支え、ある部分の人生は犠牲にし、愛し続ける。しかし太郎死後の敏子はむしろ
表情が生き生きとし、のびのびと生きているように私には感じられた。太郎が生き
ていたときより一体感があったからか。それとも太郎の業績を世間の人に知らしめ
たいという使命感からか。彼女の表現力が輝いたのは、太郎の死後だと私は思う。
彼女は自分が思っていたとおりに、太郎の仕事をまとめあげて、ある日突然に
亡くなった。平成17年。彼女の訃報に自分がとても驚いたことを思い出す。テレビ
で彼女の活躍ぶりを見たばかりだったからだ。
青山の岡本太郎記念館と川崎の岡本太郎美術館を訪れること。
そして岡本太郎の著作を読むこと。今年うちにできるだろうか。
2011年 06月 20日
右腕の筋肉
かり関心があったが、ようやく一段落して、自分自身のテニス
もしっかりやらねばと思うようになった。
課題はストレートアタックとポーチ。攻撃的なテニスをしろとコーチ
がいう。けれども私はへっぴり腰で中途半端なストレートを打っては
相手のチャンスボールになってしまうし、ポーチに早く出すぎて、ス
トレートに抜かれたりしている。相変わらず失敗の多い私である。
久しぶりに2日連続でテニスをしたが、筋肉痛である。いかに鍛え
ていなかったかがよくわかる。
「一週間に一回のテニスじゃ上達しないよ」
とみなさんに言われるが、一週間に一回休まずレッスンに行くのも
けっこうしんどい。
あとは、毎日5分の腹筋のトレーニングをすることにした。これは
『読む筋トレ』を読んでその気になった。ようやく2週間続いたところだ。
一回5分だからなんとかいける、
右肩がなんだか重い。もっと鍛えなければ!
2011年 06月 19日
本日の夕日
虫の知らせか、今日は夕方小針浜の「ポセイドン」に
行った。潮の香りがなつかしい。ここにくるのは約一年ぶりか。
近所にこんな隠れ家があることを嬉しく思う。
ポセイドンは5月から10月までしか営業しない。浜辺の
レストランだ。マスターは冬の間、世界を旅しているのだ
ろうか。店内には世界の浜辺の砂や夕日の写真が展示され
ている。それ以外にも店内に不思議な異国情緒ただよう品物
が物語りのように飾られている。
到着した頃はまだ、太陽は高い位置にあったが、本物の
ジンジャーエールを飲んだり、マメのサラダやうにのソースの
生パスタを食べたりしているうちに、夕日らしくなってきた。
カメラを忘れたので、刻一刻と自分の目で確かめることにした。
しかし、それがよかった。目はカメラのレンズに勝る。テラスに出る
と目の前が海だった。夕日の色が濃くなり、最後は透明感が出てき
て佐渡に沈んだ。ドラマの1シーンのような夕日だった。
時の流れの速さを感じる。このお店にもう何年通ってきただろう。
私たちが年を重ねるのと同じようにマスターも年を重ねているのだが
少しも変わっていないように見える。
新潟に住んでいてよかったと思えるひとときだった。
2011年 06月 13日
『手紙屋』喜多川泰 ディスカバー21

これは自己啓発本の一種なのだろう。
「僕の就職活動を支えた10通の手紙」という副題が
ある。
やや抽象的な職業論、仕事論、人生論的な部分も
あるが、それでもこの本を最後まで読んでしまうのは
いくつかの仕掛けのせいだ。
私は、主人公諒太が、手紙屋を知ることになる「書楽」
という喫茶店や、「手紙屋」の存在に魅力を感じる。
「書楽」は顧客の誕生日に、特別な玉座のある書斎を
利用するサービスをプレゼントしてくれる。本も手紙も
喫茶店も現代社会では、斜陽なものたちだ。だからこそ
とてもいとおしく、リアリティを感じる。
こんな喫茶店が現実にあったらどんなにステキだろう。
諒太は、その書斎で「手紙屋」と出会い、10通の手紙を
交換し始める。諒太はちょうど就職活動を開始したばかり
の大学4年生だ。
手紙屋と文通しならが、諒太は仕事をするとはどういう
ことか、ビジネスとは何かを学んでいくのだが、そういう
ところは、やや予定調和的で、私はあまりおもしろくなかった。
こんな説教臭い手紙をありがたがって読む諒太がとても
レトロな青年に思えた。
手紙を中心にすすめれらる小説なので、諒太の大学生活
や就職活動の描写がほとんどなく、説明的な文章が多いの
が残念だが、わかりやすい小説でもある。しかも手紙屋が何
者か、やはりそれが気になって先へ先へと読んでしまう。
なるほど。こういう小説もあるのだなあ。けっこう若い人たち
に好評らしい。
2011年 06月 10日
江國香織『ウエハースの椅子』
今日は、読書家の少女に勧められて一冊を読む。
少女時代の回想を交えながら、自分の静かな恋人との
時間を失うことを恐れる38歳の画家の語りだ。
たんたんと描かれているのだが、彼女の生活がつぶさ
にイメージできる。結婚はできないが完璧な恋人との時間
をよくばらず、大切にしてきた。ところが、だんだん待ってい
るだけの自分、恋人のいない時間をたえられなくなっている
自分に気づく。
彼女は、別れるしかないと思うのだが、病を得て、やはり
別れられない。かなわないであろう夢を二人で語り続ける。
今は幸せ、今は楽しいが将来に対するぼんやりとした不安
と相手には家族と恋人という二重の生活があるという不満。
傷つかないように用心深くしていたにもかかわらず、しだいに
傷ついていく感じがリアルだ。
これを17歳の少女が私に勧めてくれたことをとても不思議
な感触を持ってうけとめる。